タイで個人起業を目指す日本人が押さえておくべき「中央銀行の変化」と資金調達リスク
タイ経済がパンデミック期を除けば過去10年で最も弱い成長率に沈むと見込まれる中、中央銀行であるタイ銀行(Bank of Thailand=BOT)が自らの役割を見直し始めている。
新総裁ヴィタイ・ラタナコン(Vitai Ratanakorn)氏は、従来の物価や金融システムの安定にとどまらず、「実体経済との直接的なかかわり」を強める姿勢を示した。
これはタイで個人起業・中小ビジネスを立ち上げようとする日本人にとって、資金調達の環境やコンプライアンス対応が今後変わりうることを意味する。以下、そのポイントを整理しておきたい。
なおタイでは仏教暦(タイ暦)が一般的で、たとえばタイ暦2566年は西暦2023年に相当する。
この記事の目次
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1. 経済減速と中央銀行の「実体経済シフト」
構造的な成長鈍化と「グレー資本」
ヴィタイ総裁は、タイの長期的な成長鈍化の背景として
– 構造的な弱点
– 汚職
– グレー資本(地下・半地下の資金)の恒常的な存在
を挙げている。
高水準の家計債務が続く中で、実体経済の活力がそがれ、中小企業(SME)や個人事業主の資金繰りも圧迫されている。
こうした状況を踏まえ、総裁は商業銀行に対し
– SME向け融資の拡大
– 一部セグメントの金利水準の見直し(景気実勢をより反映した水準へ)
を求めている。単に政策金利を動かすのではなく、銀行の行動そのものを変えようという発想だ。
「モラル・パスウェージョン」というソフトな圧力
中央銀行が銀行に対し、法規制ではなく「倫理的・社会的な責任」を根拠に行動変容を促す手法は、英語で moral persuasion(モラル・パスウェージョン)、あるいは jawboning と呼ばれる。
– 法律や罰則ではなく、「社会的責任」や「公共の利益」への訴えかけで自主的な協力を促す
– 過度な貸し出しや引き締めを抑え、景気安定を図る際に用いられる
タイでは過去にも、不確実性が高まった局面で、中央銀行がこの手法を使い、商業銀行に「短期的な利益よりも経済全体を優先するよう」働きかけてきた経緯がある。
ヴィタイ総裁は明示的に「モラル・パスウェージョンを使う」とまでは述べていないが、「銀行と協議し、融資拡大の可能性を探る」と表明しており、実質的には同様のアプローチが想定される。
日本人の個人起業家にとっての含意としては、
– 中央銀行が「SME・家計の債務負担軽減」を明確に掲げている
– 商業銀行も社会的責任を強く意識せざるを得ない
ため、事業性の説明次第では、これまでよりも前向きな融資姿勢を引き出せる余地が広がる可能性がある。
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2. 中小・個人事業向け融資は本当に緩むのか
自動車産業の事例:与信姿勢の微妙な変化
タイの実務界は、中央銀行が政府の景気刺激策と歩調を合わせ、銀行に対し融資基準の緩和を促す姿勢を歓迎している。
韓国系自動車メーカーのタイ法人トップは、次のように指摘する。
– 家計債務や不良債権(NPL)への懸念から、銀行や自動車ローン会社は慎重姿勢を続けてきた
– とくに自動車ローンの承認は厳しく、販売を抑える一因となっていた
– ただし2025年半ば以降、承認率は新車ベースで約70%まで回復してきた
ここにさらに、中央銀行主導の「融資アクセス改善策」が重なれば、
自動車ローンを通じて経済全体に資金が流れやすくなるとの期待が示されている。
自動車を使用するビジネス(デリバリー、移動販売、サービス業など)を検討する個人起業家にとっては、
– ローン審査のハードルが若干下がりつつある
– ただし不良債権懸念は根強く、「選別的な融資拡大」にとどまる
という二面性を意識しておく必要がある。
「選別的な融資」とSMEの資金難
タイ工業連盟のトップは、
– 銀行の資産健全性への懸念(NPLリスク)は理解できる
– しかし、SMEは依然として資金繰りに苦しみ、経済の「エンジン」でありながら十分な資金が回っていない
と語る。その上で、
– ヴィタイ総裁は政府系貯蓄銀行出身で、SMEの現場をよく知る
– その経験は、商業銀行との対話で強みになるはずだ
と期待感を示す。
実際、同氏は「経済には明確な流動性不足があり、多くの起業家が事業継続に苦しんでいる一方、消費者も支出に慎重だ」と指摘している。
日本人起業家の視点からの要点は次の通りだ。
– 中央銀行の方針転換で、「採算の見えるSME」には資金が出やすくなる余地がある
– ただし、銀行は依然として資産の質(返済可能性)に強い関心を持つ
– 結果として、「誰にでも資金が出る」のではなく、ビジネスモデルと返済計画を明確に説明できる先ほど、選別的に支援される
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3. 現金引き出し規制と業種別リスク:宝飾産業から学べること
大口現金引き出しの新ルール
タイ銀輸出業界を代表する業界団体は、中央銀行が行う規制見直しのうち、
– 3〜500万バーツを超える現金引き出しに対し、
– 取引目的の説明を銀行に求める新ルール
を支持している。
同団体トップは、
– 宝石・宝飾業界の多くは法令を順守しており、新ルール自体は大きな支障にはならない
– ただし、SMEに過度な事務負担を課さないことが重要
– 銀行は顧客をリスクプロファイルで分類し、一定の「ホワイトリスト」顧客には、毎回の詳細説明を免除する仕組みも検討すべき
と提言する。
「業種の特性」に応じた与信判断
同氏は、宝飾業、とりわけ銀製品ビジネスの特徴として、
– 銀は「原材料」であると同時に、「担保価値」を持ちうる
– 取引先は長年の付き合いのある顧客が多く、銀行経由の取引が中心
と説明した上で、
– 宝飾業の内部にもさまざまなセグメントが存在し、それぞれリスク特性が異なる
– にもかかわらず、銀行が業界を一括りに評価すれば、適切な金利条件や与信枠を設定できない
と警鐘を鳴らす。
業界団体としては、
– 銀行がセグメント別にきめ細かな審査を行えるよう、業界情報を積極的に提供する用意がある
– あわせて、輸出企業の負担軽減のため、国際送金などの取引手数料の見直しも銀行に求めている
と述べている。
個人起業家への示唆
この宝飾業の議論は、そのまま他業種の個人事業主にも当てはまる。
1. 「業種特性」を銀行に理解させることが重要
– 収益構造
– 仕入・在庫・担保になり得る資産の性質
– 取引先の安定性(継続取引か、スポット取引か)
などを、自ら説明しなければ、銀行側は一般的なテンプレートでしか評価できない。
2. 大口現金取引の説明責任が重くなる
– 一定額を超える現金引き出しには、目的説明が必須となる方向だ
– 現金決済が多い業態ほど、「なぜ現金が必要か」を論理的に説明する資料作りが欠かせない。
3. 取引履歴・コンプライアンス姿勢を積み上げれば、長期的に負担軽減も
– 宝飾業界が提案する「ホワイトリスト」のように、
取引履歴や書類整備を通じて「低リスク顧客」と認識されれば、将来的に手続きが簡素化される余地もある。
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4. グレー資金監視強化とデータ連携:金融環境は「透明性」へ
グレー資金ハブ化への懸念
タイの大手商業銀行および世界銀行は、中央銀行が担おうとしている役割拡大――とくに
– 不正資金の流れ(グレー・マネー)の把握
– 地下経済とのつながりの監視
に対し、支持を表明している。
タイの大手銀行CEOは、
– とくに国境地域において、タイが「グレー金融の地域ハブ」になるリスクが高まっている
– インフラ整備の進展や、
金・暗号資産・USDT(テザー)といった資産へのアクセスの拡大、
そしてデジタルプラットフォームの急速な普及が、脆弱性を強めている
と指摘する。
金融機関への報告負担は増えるが、データ統合も進む
同氏は、取引データの統合が進めば、
– 銀行側の報告・モニタリング負担は確実に増える
– それでも、データが有効に活用されるのであれば、負担増は受け入れる
との考えを示し、そのためには
– 関係当局が公平にアクセスできる一元的なデータプラットフォームの構築が必要
だと述べる。
タイ銀行協会は、こうした方向性を踏まえ、
– CHECKED(Consent Hub for Exchange of Compliant Knowledge and Encrypted Data)
と呼ばれるデータインフラ構想を準備している。これは、金融機関や関係ステークホルダー間での情報共有を強化するための仕組みだ。
世界銀行のタイ担当エコノミストも、中央銀行による
– 金取引の追跡
– 為替相場変動の管理強化
への取り組みを評価している。
日本人起業家の留意点:透明性とトレース可能性
この「データ連携強化」と「グレー資金監視」の動きは、
– 個人事業レベルを含むすべてのビジネスで、資金の出所と流れの透明性が一段と重視される
– 銀行口座を介さない、説明しにくい取引は、将来的な与信・取引制限のリスクを抱える
ことを意味する。
タイで個人起業を行う日本人にとって、今後はとくに
– 売上・仕入・送金のトレース可能性(銀行記録や請求書・領収書との紐付け)
– グレーゾーンになりうる現金取引や資金移動の排除
– 国際送金についての手数料・規制の確認と、正規ルートの徹底
が、金融機関との信頼関係を維持する前提条件になっていく。
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5. タイで個人起業する日本人が今から準備すべきこと
以上を踏まえると、タイで新たに個人ビジネスを立ち上げる日本人が、当面意識しておきたいポイントは次の通りである。
(1) 「選別的な融資拡大」を前提に、説明資料を磨く
中央銀行はSME向け融資拡大を求めているが、銀行側は依然として
– 家計債務の高さ
– 不良債権増加への懸念
から、貸し出しの質に神経をとがらせている。
したがって、
– 売上計画とキャッシュフロー
– 担保となり得る資産の内容
– 主要取引先の信用度・取引履歴
– 事業の社会的意義(雇用、地域経済への貢献など)
を、業種特性と一体で説明できる資料を準備することが、融資を引き出すうえでの最低条件になる。
宝飾業界が銀行に対し「業界のセグメント別リスクを理解してほしい」と訴えているように、自身の業種についても、
– 一般的なイメージではなく、「自分のセグメントはどういうリスク・収益構造か」
を具体的に伝えられるかどうかがポイントとなる。
(2) 現金取引は「合理的な範囲」にとどめ、説明可能性を確保
3〜500万バーツを超える現金引き出しに説明義務が課される方向性は、
– 現金取引を全面的に否定するものではない
– だが、「なぜ振込ではなく現金なのか」を説明できない取引は、今後ますます扱いにくくなる
ことを示唆している。
個人起業家としては、
– 可能な範囲で銀行振込・デジタル決済を利用し、記録を残す
– やむを得ず大口現金を扱う場合には、
– 取引先・目的・金額根拠をメモ・契約書等で残す
– いつでも銀行に提示できる状態にしておく
といった「説明可能性」を意識した資金管理が必要になる。
(3) 銀行との中長期的な関係構築を意識する
モラル・パスウェージョンのもとで、銀行には
– 家計やSMEの債務負担軽減に貢献する
– 実体経済の支援を通じて「社会的責任」を果たす
ことが求められている。
これは裏を返せば、
– きちんとした記録を残し、
– コンプライアンスを守り、
– 持続可能な事業計画を提示する起業家
に対しては、銀行側も積極的に支援するインセンティブを持つということでもある。
その意味で、日本人起業家としては、
– 取引銀行を安易に変え続けるのではなく、
– 一つまたは少数の銀行と継続的な関係を築き、
– 情報をオープンに共有しつつ信頼を高めていく
という「関係性の投資」が、結果的にもっとも効率的な資金調達策になりうる。
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まとめ:緩む融資・厳しくなる監視、その両方を見据える
タイの中央銀行は、経済減速と構造的問題を前に、SME支援とグレー資金監視という、「緩める部分」と「締める部分」を同時に動かそうとしている。
– SME・個人事業向けの資金アクセスは、条件次第で改善が期待できる
– 一方で、不透明な資金の流れには、これまで以上に厳しい目が向けられる
日本人がタイで個人起業を行う際には、
1. 自身のビジネスが「どのセグメントに属し、どんなリスク・収益特性を持つか」を明文化する
2. 資金の出入りをできる限り銀行経由・デジタルでトレース可能にしておく
3. 取引銀行との対話を通じて、変化する規制や実務運用を早めにキャッチアップする
ことが、不確実な環境下でも持続的に事業を育てる条件となる。
中央銀行の「実体経済への接近」は、見方を変えれば、健全な中小ビジネスや個人起業家にとっての追い風になり得る。ただし、その恩恵を受けられるのは、「透明性」と「説明責任」を自らのビジネス慣行として組み込んだ起業家に限られるだろう。
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参照記事:https://www.bangkokpost.com/business/general/3198260/rethinking-the-central-banks-role
