企業の価値観が問われる時代に、LGBTQ+を含めた「インクルージョン(包摂)」はタイで起業する日本人にとっても無関係ではない。バンコクで開かれた国際フォーラムでは、インクルージョンが経済成長や投資、競争力に直結するという点が繰り返し強調された。小さな会社であっても、採用や職場づくりの方針をどう設計するかが、中長期のビジネスの成否を左右しうる局面に入っている。
「インクルージョン=経済戦略」という視点
バンコクの商業施設エムスフィアで開かれた「Bangkok Post Pride Dialogue 2026」では、多様性と経済の関係が議論された。外交団や企業幹部、市民団体が集まり、ダイバーシティやインクルージョンの政策が経済や企業業績にどう影響するかを検証した場である。
オーストラリア大使館で経済担当カウンセラー代行を務めるリサ・デービッドソン氏は、各国政府がインクルージョンを「権利」の問題だけでなく、「測定可能な成果を伴う経済戦略」として捉え始めていると指摘した。経済協力開発機構(OECD)の研究として、より包摂的な社会は、安定性と統治の質が高く、より多くの海外直接投資を呼び込み、長期的な経済パフォーマンスも高い傾向があると紹介した。
同氏は「インクルージョンは、社会のあらゆるメンバーが尊重され、所属意識を持ち、十分に貢献できる状態を意味する」と語った。オーストラリアでは、職場での差別を禁じる法律や婚姻の平等を認める法制度、全ての州と準州におけるLGBTQ+の保護などを通じ、立法や公衆衛生、外交政策の枠組みにインクルージョンを組み込んでいるという。
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インクルージョンは、同国のナショナル・アイデンティティや統治にも埋め込まれ、社会的結束や経済のレジリエンスを支えると説明した。これは大企業や政府だけの話ではない。起業家が掲げる価値観や、日々のマネジメントの積み重ねが、どのような職場文化とパフォーマンスを生むか、という問いにそのままつながる。
排除が生む「GDPの目減り」と人材流出
一方、LGBTQ+への差別や排除が経済に与えるマイナスの影響も、数字を伴って議論された。APCOM Foundationのプログラム・アンド・アドボカシー責任者、ヌマン・アフィフィ氏は、世界銀行の研究を引用し、差別は生産性の低下や貧困の増加、公衆衛生コストの増大を通じて経済パフォーマンスを損なうと述べた。
同氏は、LGBTQ+の人々が排除されることによって、一部の国では国内総生産(GDP)の0.1〜1.7%に相当する損失が生じうるとの推計があると紹介した。規模の大小を問わず、労働市場への参入障壁や職場での差別が広がれば、「誰か」の問題ではなく、国全体の成長余地を狭める構図である。
また、スキルの高い専門人材ほど、自らのアイデンティティをオープンかつ安全に保てる国や職場に移動する傾向があると指摘した。インクルーシブな環境づくりに失敗する企業は、優秀な人材を競合に奪われるリスクを抱えるという。タイで事業を立ち上げる日本人にとっても、今後、現地人材や周辺国からの人材を採用する場面は避けられない。規模が小さいほど、一人ひとりのパフォーマンスの重みは増すため、人材流出のコストも相対的に大きいといえる。
ヌマン氏は「文化は頭の中に存在するのではなく、行動を通じて存在する」と述べたうえで、インクルージョンは象徴的なジェスチャーでは足りないと警鐘を鳴らした。職場文化は意図ではなく、具体的な行動とルールによって形づくられるため、平等を日々のオペレーションに組み込む明確な方針と実践が不可欠とした。
タイの婚姻平等とアジア太平洋の潮流
フォーラムでは、アジア太平洋地域におけるLGBTQ+の権利をめぐる動きも論点となった。参加者は、タイで成立した婚姻の平等を認める法律を「国内の節目」として位置づけたうえで、ネパール最高裁が同性婚の権利を認める判断を示したことも挙げた。
他方で、同地域には、今なお同性間の関係が刑事罰の対象となる国があり、LGBTQ+コミュニティーが差別やスティグマ、限定的な法的保護に直面している現状も共有された。地域全体としては徐々に前進しながらも、大きな格差が残るという構図である。
ヌマン氏は、人権状況は一国の内政問題にとどまらず、相互に結びついたグローバル経済のもとでは国境を越える影響を持ちうると警告した。国連の「普遍的・定期的レビュー(UPR)」やASEANの人権枠組みなどの国際的なメカニズムを活用し、各国が協調して課題に取り組むことを促したが、その実効性は加盟国の政治的意思と協力に左右されるとも述べた。
こうした流れのなかで、タイが婚姻平等の法制化を進めたことは、少なくとも地域内での位置づけに変化をもたらすとみられる。インクルーシブな社会づくりを掲げる国や企業が集まりやすい土壌が生まれつつあるとの見方も可能であり、その現場でビジネスを始める日本人にとって、どの価値観を前面に出すかは以前にも増して問われる。
多国籍企業の姿勢から学べること
議論では、多国籍企業がインクルージョンを進めるうえで果たす役割にも焦点が当てられた。ヌマン氏は、LGBTQ+へのスティグマや刑事罰が残る国・地域であっても、企業はインクルーシブな職場ポリシーを維持するべきだと訴えた。
ローカルな制約に合わせて自社の基準を引き下げるのではなく、むしろ企業としての影響力を使い、平等や従業員の権利保護を促す側に回るべきだという立場である。同氏は「ビジネスと人権は表裏一体だ」と語り、職場のインクルージョンに関するポリシー適用を恐れないよう企業に呼びかけた。
これは、大手多国籍企業だけに向けられたメッセージではない。タイで起業する日本人にとっても、将来、大企業との取引や共同プロジェクトを視野に入れるなら、自社の価値観や人権に関するスタンスがチェックされる場面は増えるとみられる。取引先として選ばれるかどうかの基準に、価格や品質だけでなく、インクルージョンの姿勢が加わる可能性があるということだ。
小規模ビジネスであっても、採用・評価・日常のコミュニケーションに関して、差別を許さない方針を明文化し、実際の運用に落とし込むことはできる。求人の文言で性別や性的指向を前提にしない、面接で個人のプライバシーに踏み込みすぎない、ハラスメントの相談経路をあらかじめ示す――といった基本的な配慮だけでも、職場文化のメッセージは大きく変わる。
起業計画に「インクルージョン」を組み込む
今回のフォーラムが示したのは、インクルージョンがもはや「余裕のある大企業が取り組むCSR」ではなく、国家レベルでも企業レベルでも、成長と競争力に直結する戦略テーマになりつつあるという現実だ。排除はGDPの目減りと人材流出を招き、包摂は投資と長期的なパフォーマンス向上を引き寄せる、という整理である。
タイでの起業を考える日本人は、ビジネスプランや資本政策と同じ段階で、「どのような働き手に門戸を開き、どのような職場文化をつくるか」を設計しておく必要があるだろう。インクルージョンを前提に据えた小さな組織づくりが、将来、優秀な人材や海外投資家、多国籍企業との接点を広げる下地になる可能性は小さくない。
法制度や社会意識は今後も変化していく。だからこそ、最低限どのラインを守るのか、経営者自身の軸を早い段階で言語化しておくことが、変化の波に振り回されない事業運営につながるはずだ。インクルージョンを「コスト」ではなく「投資」として起業計画に組み込めるかどうかが、タイでのビジネスの持続性を左右する分岐点になるとみられる。
