タイ・デジタルテレビ再編の行方とナショナル配信構想
――日本人個人起業家が押さえるべき事業環境
タイでコンテンツ制作や広告、オンラインサービス関連での個人起業を志す日本人にとって、放送・配信の制度設計は「見えにくいが無視できない前提条件」です。
タイ暦2566年(西暦2023年)時点で、タイの放送通信規制当局であるNBTC(National Broadcasting and Telecommunications Commission)が、デジタルテレビとオンライン配信の「次の枠組み」を模索していることは、これから事業を立ち上げる人にとっても重要な意味を持ちます。
本稿では、公開されている情報に基づき、タイのデジタルテレビとOTT(インターネット配信)を巡る動きを整理し、日本人個人起業家の観点からどこに注目すべきかを考えます。
この記事の目次
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1. デジタルテレビ15局体制と「2029年ライセンス満了」という節目
タイは2013年のライセンスオークションを経て、当初24のデジタルテレビ局が誕生しました。しかし、高いコスト負担と競争激化の中で撤退が相次ぎ、現在残っているのは15局にとどまります。
これら15局はいずれも、NBTCが付与した放送ライセンスの下で運営されており、そのライセンスが2029年に期限を迎える点が、業界全体の前提条件です。NBTC自身も「2029年以降、どのようなライセンス制度になるかはまだ不透明」と認めており、極端なシナリオとしては「高精細(HD)システムによる3〜5局体制」に集約される可能性にも言及しています。
タイでの個人ビジネスを構想する際、特にメディアや広告に関わる事業では、
– 現行の15局体制は「2029年までの暫定的な姿」であること
– その後は局数や制度が大きく変わり得ること
を前提に、短中期と長期で分けて事業シナリオを描く必要があります。
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2. NBTCが描く「ナショナル・ストリーミング・プラットフォーム」構想
NBTCは、2029年以降もデジタルテレビ局が生き残れるよう支援する手立てとして、主に二つの選択肢を検討しています。いずれも「ナショナル・ストリーミング・プラットフォーム」という発想に収れんしている点が特徴です。
2-1. 新たな国営レベルの配信ハブを立ち上げる案
一つ目の案は、「全国規模の共通配信プラットフォーム」を新たに設置し、すべてのデジタルテレビ局のリアルタイム配信をそこに接続するというものです。
NBTCの想定では、このプラットフォームを通じて、
– 各局の配信状況や視聴実績を一元的に把握
– それに基づきテレビ広告の収益モデルをより正確に評価
できるようにする狙いがあります。言い換えれば、「視聴データに基づく広告価値の見える化」を国家レベルの基盤として整備しようとしている構図です。
個人起業家の目線で見ると、もしこの構想が具体化すれば、
– 自社コンテンツの露出先として「一本化された窓口」が生まれる
– 広告やスポンサーシップの評価指標が、より定量的に提示される可能性が高い
という意味を持ちます。
2-2. AIS Play / True ID / ThaiPBS 等の既存プラットフォーム拡張案
もう一つの案は、すでに存在する配信プラットフォーム――たとえばAIS Play、True ID、ThaiPBSなど――のうちいずれか、あるいは複数を拡張し、「事実上のナショナル・プラットフォーム」と位置付ける方法です。
NBTC委員のピロンローン・ラマスータ氏によれば、これはプラットフォーム事業者とデジタルテレビ各局の協業によって実現可能とされています。NBTCの技術部門はすでに、プラットフォームのプロトタイプを作成するためのアドバイザー契約の条件(ToR)を策定済みで、理事会が承認し次第、国際アドバイザーに具体的な設計を委託する準備が整っているといいます。
事業者にとっての含意は次の通りです。
– 現在はバラバラに存在する配信チャネルが、いずれ「一つの大きな市場」として再定義される可能性
– 既存プラットフォームと組むか、新たなナショナル・プラットフォームに乗るかが、コンテンツ戦略上の重要な選択になり得る
いずれの案に落ち着くとしても、「テレビ局=電波だけ」の構図から、「テレビ局+共通オンライン・プラットフォーム」という二層構造に移る方向性は明確です。
コンテンツ制作やメディア連携を志す個人起業家は、早期の段階からこうしたプラットフォームの動きにアンテナを立てておく必要があります。
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3. 業界団体の要望:OTT規制とロードマップの明確化
こうしたNBTCの構想に対し、デジタルテレビ局の業界団体であるADTEB(Association of Digital TV Broadcasting)と、Online News Producers Associationは、共同でNBTCに対する要望書を提出しています。焦点は大きく二つです。
1. デジタルテレビの中長期ロードマップを早期に確定すること
2. OTT(インターネットを通じた映像配信)に対する監督ガイドラインと、ナショナル・ストリーミング・プラットフォームの開発を進めること
背景には、近年のインターネットおよびSNS上での
– 誤情報(ミスインフォメーション)
– 詐欺
– 情報の歪曲
– 不適切コンテンツの拡散
といった問題があります。業界側は、OTTサービスにも標準・責任・倫理を求める規制枠組みを整え、プレーヤー間のルールを明確にしてほしいと主張しています。
ADTEBはこれに先立ち、自らの会員であるテレビ局のライセンス延長も併せて要望しています。タイでは、アナログからデジタルへの移行をライセンスオークション方式で行いましたが、ADTEBによれば、多くの国はオークションを伴わずに移行を進めてきたという指摘もなされています。
個人起業家の立場からは、
– OTT事業が「完全な自由競争」から、「一定の規律が課される市場」へ移りつつある可能性
– デジタルテレビ局とOTTの「規制格差」が徐々に縮小していく見通し
を織り込んでおくことが重要です。特にニュースや情報系コンテンツを扱う場合には、「信頼性や責任」を巡る社会的な期待値がタイでも高まっている点を無視することはできません。
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4. テレビは今なお「生活インフラ」:視聴データが示す現実
ストリーミングやSNSが注目される一方で、テレビそのものの存在感は依然として大きいことも、NBTCと業界団体が強調するポイントです。
米ニールセンが実施した調査によると、「余暇時間の過ごし方」としてテレビ視聴を挙げたタイの回答者は57%に達し、以下の活動――音楽鑑賞(41%)、スポーツ・運動(33%)、料理(23%)、寄付(22%)――を上回っています。
世代別では、
– ジェネレーションXの61%
– ジェネレーションYの54%
– ジェネレーションZの47%
が、オンラインとオフラインの両方でテレビ視聴を楽しんでいると回答しました。NBTCのピロンローン氏は「特に地方部では、いまなおテレビが情報と娯楽の主たるチャネルであり続けている」と指摘しています。
これは、タイで個人ビジネスを立ち上げる際、
– SNSやOTTだけでなく、テレビも依然として有力な接点である
– とりわけ地方市場や中高年層をターゲットとする事業では、テレビ連携をどう位置づけるかが重要
であることを示します。デジタルテレビ局が運営する番組タイアップ、ニュース内での露出、あるいは今後整備されるかもしれないナショナル・プラットフォーム経由での動画コンテンツ提供など、「テレビ+オンライン」を組み合わせた発信を検討する余地は小さくありません。
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5. 2029年以降に向けた不透明性と、個人起業家のスタンス
NBTCは、デジタルテレビのインフラとネットワークについて、「技術進化や視聴者行動の変化による新たな脅威に対しても十分対応可能」と評価しています。一方で、
– 2029年のライセンス満了後も、現行のテレビ局がコンテンツ供給を続けられるか
– ライセンス制度自体がどのような形に再設計されるのか
については、「時期尚早」とし、明確な見通しは示していません。
また、ADTEBは、NBTCが検討している3,500〜3,800MHz帯の通信向け周波数オークションにも懸念を表明しています。この帯域は、多くの衛星放送局が番組配信に利用しており、調査によれば国民の約60%が衛星経由でデジタルテレビを視聴しているためです。
周波数再編の進め方次第では、既存の視聴環境にも影響が出る可能性があり、これはテレビ広告や番組連携を前提にするビジネスにとっても無視できない変数です。
こうした不透明性の中で個人起業家に求められるのは、
– 2029年までは現行制度を前提に、デジタルテレビとの連携や露出機会を積極的に活用しつつ
– 中長期的には、局数減少やナショナル・プラットフォームの登場といった「制度変化」を前提に、事業モデルを柔軟に設計しておくこと
です。特定の一局、一つのプラットフォームに依存し過ぎず、複数のチャネルを前提にしたコンテンツ戦略や顧客獲得手段を組み立てておくほうが、制度変更の影響を吸収しやすくなります。
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6. タイで個人起業を志す日本人への実務的な視点
タイのデジタルテレビとOTTを巡る議論は、一見すると「大手メディアと規制当局の話」に聞こえます。しかし、個人起業家にとっても、次のような形でビジネス機会とリスクに直結します。
– 信頼性のある発信先としてのテレビ局
NBTCの監督下にあるデジタルテレビ局は、「信頼できる、責任ある、検証可能なコンテンツ」を提供する国家的なプラットフォームと位置づけられています。自社事業を「信頼感」とともに訴求したい場合、こうした枠組みとどう付き合うかは検討に値します。
– ナショナル・プラットフォームを前提にしたコンテンツ設計
将来的に国レベルの共通配信基盤が整備されれば、個人レベルのコンテンツ制作者や情報発信者にとっても、新たなリーチ拡大の場となり得ます。そのとき、自社コンテンツがテレビ局や既存プラットフォームと協業しやすい形になっているかは、早い段階から意識する価値があります。
– OTT規制強化を見据えたコンプライアンス意識
誤情報・詐欺・歪曲・不適切コンテンツへの懸念が強まる中で、OTTサービスにも一定の規制が及ぶ方向にあることは、情報発信系ビジネスに直接響きます。「規制がないから自由」ではなく、「一定の倫理と責任」を前提に事業を設計しておくことが、中長期的には市場からの信任につながります。
タイ暦2566年(西暦2023年)時点で、NBTCはまだ具体的な制度設計を最終決定してはいません。しかし、
「デジタルテレビの再編」と「ナショナル・ストリーミング・プラットフォーム構想」、そして「OTT規制の枠組みづくり」という三つの大きな流れは、すでに動き始めています。
タイで個人起業を志す日本人にとっては、この流れを単なる規制ニュースとしてではなく、「自らのビジネスモデルを磨き込むための外部条件」として冷静に見極めることが、これからの数年を生き抜くうえでの鍵になるはずです。
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参照記事:https://www.bangkokpost.com/business/general/3164438/static-outlook-for-digital-tv-channels
